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ブックの説明
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米沢市林泉寺墓地における墓標の変遷と階層性
Changes and hierarchy of tombstone in Linsen-ji cemetery北野 博司
KITANO Hiroshi大風 雅明
OKAZE Masaaki大嶋 侑暉
OSHIMA Yuki門脇 明保
KADOWAKI Akiho後藤 篤人
GOTO Atsuto後藤 達也
GOTO Tatsuya佐藤 宏平
SATO Kohei三浦 望
MIURA Nozomi本稿は米沢藩上杉家の菩提寺‐春日山林泉寺の墓標調査を基にした小論である。林泉寺には藩主夫人や子女の墓、享保4年(1719)に成立した米沢新田藩・駿河守家の墓がある。また、直江兼続夫妻、高家衆の武田家、畠山家、二本松家、侍組の長尾家や三股家といった有力家臣家の墓地があり、米沢を代表する近世寺院墓地である。上杉家、家臣団の墓地を中心に408基の墓標を調査した。
上杉家では最上位の藩主廟墓(木造堂舎内に大型五輪塔安置)を頂点とし、夫人・子女、駿河守家は石造堂舎型+小型五輪塔、家臣団は石造万年堂+小型五輪塔と、身分と墓標形式に明瞭な差異があった。藩主夫人でも藩政初期には景勝正室や定勝正室は笠塔婆(笠付角柱)を採用していた。家臣団墓地では17世紀代に万年堂が普及し、藩内の家格・石高等によりサイズ別の使い分けが認められた。特大サイズの万年堂は家の始祖を祀る形で墓地の中央に置かれ、藩主墓の配置原理にも似て左右に横一列に拡大していくパターンが認められた。その延長で横長(鐵家、朝岡家など)と縦長(武田家、長尾家など)の2種類のコの字形配列があった。
18世紀後半から棹石が板状や角柱状を呈する小型墓が普及し、19世紀にはその主流が万年堂と置き変わっていった可能性を指摘した。Keywords
近世墓地、上杉家、上杉家家臣団、階層性、石堂、万年堂
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